……夜はとっぷりと暮れ真っ暗闇となった。村らしいものは全然見当たらなかった。
あたりが一面の雪野原では、私には右も左もわからなかった。疲れて私は馬から下り、
雪の上に突き出している尖った木の切り株のようなものに馬の手綱を結びつけた。
用心深く私は数丁のピストルを抱え、雪の上に横になりぐっすりと眠った。
目を覚ました時は真っ昼間であった。自分が村のど真ん中にある教会の中庭に横になっており、
馬はどこにも見当たらないと思ったすぐそのあとに、馬のいななきを聞いた時の驚きを
理解するのは困難であった。上を向いてみると、私の馬が教会尖塔の風見鶏にひっかけられた
手綱からぶら下がっていた。
そしてすべてがはっきりしてきた。夜中、村は雪に埋もれていたのだ。そして天候が
突然変わり、私が眠っているあいだに雪が溶け、溶けるにつれ私はゆっくりと教会の
中庭に沈み落ちたのだ。暗闇の中で雪の上に突き出していた木の切り株は教会尖塔の
十字架か、それとも風見鶏であり、私はそれに馬の手綱をゆわえつけたのであった。
『歴史は患者でつくられる』(R.ゴードン著 倉俣・小林訳 時空出版刊 品切れ)より
これはルドルフ・エリッヒ・ラペスが書いた『ミュンヒハウゼン男爵の驚くべきロシア旅行と
従軍物語』(1785、ロンドン)の一節です。
関東地方を襲った週末の記録的大雪に、打つ手がないのかと思ったとき、
この法螺(ほら)吹き男爵の話を思い出しました。
「天候が突然変わり」短時間に大雪が積もることはあっても、半日ですっかり溶けるとは……、
想定外の積雪に何時間も立往生で車に閉じ込められたり、通行止めで孤立している地域の方々、
雪掻きに追われた方々には羨ましい話です。
ヒエロニムス・カルル・フリードリッヒ・フォン・ミュンヒハウゼン男爵は実在のボーデンヴェルダー
出身のドイツ貴族で、ロシア軍に所属して出征し、数々の信じがたい手柄話を持ち帰りました。
同郷のラペスがそれを誇張して49頁の本にして匿名で出版し、1シリングで売り大ヒットしました。
イギリスのリチャード・アッシャー医師は、ほとんどの医師が出会っているにもかかわらず、
記載されたことの無いありふれた症候群を「男爵にちなんで名付けられ彼に献呈されるものである」
として、ミュンヒハウゼン症候群 Munchausen's Syndromeを1951年に医学誌『ランセット』に記載しました。
R.Asher 加藤・飯田訳「ミュンヒハウゼン症候群」松下・影山編「現代精神医学の礎」第Ⅰ巻
『精神医学総論』所収(時空出版)
コメントをお書きください